臓器移植法と脳死判定 


平成21年夏に臓器移植法が改正されました。私は法律のことは解りませんし、移植に直接携わった経験もありませんので理解できない部分がありますが、今回の改正も抜本的な問題解決にはつながらないように思います。最も必要なのは、国の方針が誰にでも解るようなシステムです。 移植に関しては意思表示をしない、または話題にすることすら嫌う人が多いのですが、重要なことですので意見を述べます。  
私自身は自分が移植を必要とする病気になっても、移植を受けずにそのまま死にたいと思います。また、家族の臓器を提供するかどうかは、本人の意志が解らない場合はすべきでないと考えます。ドナー登録は増やすべきと思いますが、私個人は移植手術を積極的に増やすべきではないと思います。これは財政面の不安や心情的な理由によるものです。人の死を多く経験し、諦めに慣れて感覚が麻痺しているからかも知れません。


脳死判定 
移植用の臓器は不足していますが、おそらく脳死判定が大きなネックになっていると思います。「脳死は人の死か」という議論に固執しすぎたためかもしれません。脳死という言葉は使わないほうが良い気がします。 
単純に言えば、大事なのは心臓が動いている状態で臓器を取り出すことに納得できるかどうかですが、高尚な意図があろうと結局は命に止めをさすのですから、判断を迫られた時、すぐにできる人は少ないはずです。私も自分の家族が脳死状態だと言われて、すぐ心の整理がつくとは思えません。 
脳死判定は事務的手続きのためには必要ですが、少なくとも家族に判定の如何で悩ませることは避けるべきだと思います。そもそも身内の不幸で動揺している家族に、急に移植を勧めるのは非人道的です。


神経反応の変動 
脳死判定は本来が不正確なものと思います。私は、自分が死亡宣告した患者さんが生き返った経験があります。患者さんは徐々に心拍が減って心臓が静止して数分経ち、すべての反射が完全になくなり、一般的には死亡と判断される状態でしたが、心臓が止まったまま突然うめき声を発し、やや遅れて少しずつ心拍が再開しました。怪談のような経験でした。 
神経学的所見は単なる現象にすぎず、反応がないことが活動の不可逆的停止を意味しません。植物状態と思われる患者でも脳の活動が保たれているという報告もあります(N Engl J Med Vol 362:579-589)。 優れた脳死判定基準を使っても、回復の可能性が0%という判定は最初からありえません。でも「ゼロでない」ということは、ともすれば強調されます。家族は「回復の可能性がゼロでないなら、奇跡を祈りたい。臓器提供は拒否したい」と考えます。それが当然です。 回復の可能性が0%と断言するのは困難ですから、つきつめると脳死判定の意味も限られています。


判定のあり方 
判定は医者以外の人間、公証人や法律家などがすべきと思います。脳死判定に専門性はたいして必要ないはずです。医者は基本的に延命と苦痛を除くことのみを考えるべきで、臓器を提供させる=殺すことは本来の責務の正反対の行為であり、そもそも無理があります。 
大事なのは脳死か否かではなく、「法的に臓器提供が望ましくない状態」か、「国家が臓器(命)の提供を求める状態」かです。極端な話、臓器提供の意志カードも、「国家が臓器提供を望む状態になったら、回復の可能性の如何に関わらず提供。」のように記載すべきかもしれません。  
提供の最終判断は家族がすべきですが、言葉遊びに似た認識の違いのために、わずかな可能性に期待をさせ無駄死にさせる、または了解を強いるのは酷です。国がその意志を明確にし、家族がそれを感じられるようにシステムをはっきりさせるべきです。


臓器提供の圧力  
現実として臓器を準備できずに助かる命を見殺しにするのは殺人的行為です。倫理問題を理由に国内が移植に積極的に動かないと、結局は積極的な国に行こうとします。場合によっては売買で手に入れた臓器でも移植を受けます。外国側にすれば犯罪を誘発される迷惑な事態になりますので、犯罪防止、海外における人道の観点から見れば、ドナーの確保は必要でしょう。
今後は脳死状態の人に対して臓器を提供するように圧力がかかってくる可能性もありますが、それも新たな人道的問題です。臓器を提供して欲しい場合には国家の意志を示すべきですが、いかなる圧力もかかりようがない制度を法律と同時に作らなければなりません。    


訴訟の問題   
近年の裁判所の判断や警察の捜査の仕方に、医療関係者は神経質になっています。理不尽な捜査や判決が少なからずありますし、善意から出た行為であっても逮捕や訴訟が待ち構えている状況では、はっきり法律が決まっていない分野に積極的に関わるには勇気が要ります。ところが、そもそも多くの場合、法律の文面は曖昧で、現場を知らない法律家が作る傾向があります。 無茶な判決が自分にも下されたらと考えると、さすがに身構えるでしょう。


金銭的問題  
どの程度の規模で行われるかによって、意義も変わってきます。移植が頻繁に行われるようになると、そのたびに寄付を募るのは無理になります。すると、結局は金を集めることができた命は助かり、金が足りなかった命は捨てられるという、より悲惨な状況が繰り拡げられることになります。
補助金や健康保険を使おうという圧力も強まるでしょう。しかし、現在の保険財政には余裕がありません。実際に保険を使いだしたら、他の何かを切り捨てないといけないでしょう。例数が増えれば、社会が経済的な面で移植に耐え切れないこともありえます。いっぽうで、移植に期待を寄せる人の気持ちも考えないといけません。「金がないから」という理由で納得できるはずはありません。 


技術の問題    
やがて技術が進歩して自分の皮膚から簡単に臓器を作り出せるようになれば、倫理や脳死の判定は大問題ではなくなるでしょうが、今はそうではありません。技術が足りないことが最大の問題です。
生命倫理に関する考え方は千差万別ですし、立場によっては神への冒涜ととらえて移植を認めない人もいれば、わらをもつかむ思いで期待している人もいますので、倫理の問題をクリアすることは無理です。人工臓器が問題を解決する唯一の道でしょう。
ただし、どれくらいの価格で提供できるかで意義も変わってきます。経験から推測すれば、巨大な培養ラボを作って効率よくやれば、臓器一個数十万円くらいに落とすことも可能だと思います。そうなれば価値感覚が激変し、新たな問題が発生するでしょう。


制度の整備   
国は責任を回避しようとしているように思えます。国が移植をどのように考えているのか、今後ドナー制度が整備されるのかも解りません。
システムを作らないと家族と現場に負担がかかります。極論ではありますが、国の意志を明らかにする方法のひとつは、国家公務員をドナー登録者と定めることかも知れません。人権規定に触れるかもしれませんが、法律の実効性を出すにはドナーが充分に存在することが条件です。実効性のない法律ばかり作っても仕方ありません。この案は極論ではなく、反論もありえないほどの正論なのかもしれません。
移植に関して司法判断が介入する可能性がないレベルまで規定を決めることも必要だと思います。法律の文面は曖昧で、「充分な説明を要する」「同意を要する」などという表現で済ませてしまいますが、これは後で説明が充分だったか、相手が理解していたかどうかなどの司法判断を引き起こします。法的問題を争う可能性がないまで規定すべきです。  





診療所便りより 平成22年2月28日